やはり、色々なことを考えると、山の価値、というのは、その山での体験の質にあるのではないか?と思う。
どんなに美しい山であっても、無謀な計画の山では、ひどい山。大した山ではなくても、体験の質が高い山が価値がある。
では、体験の質を決める要素は何か?ということになるだろう。
柏瀬さんはインタレストグレードと言うことを考えたそうだ。
私は、体験の質は、山行の発端からスタートすると思う。良き山というのは、基本的に、相手への思いやりでスタートするものだという気がする。
逆に無謀な山の計画というのは、俺の実力を見せてやる、というような傲慢さからスタートしているように思う。あるいは、怠惰が付加されるときもある。
山への畏敬の念が足りない場合、ギア不足や技術不足で臨むことになり、良き山とならない可能性が濃厚だと思う。
結局のところ、山は山でしかなく、あまり意味は持たない。その不動の対象に、意味をもたらすのは、
人
ということは言えると思う。メスナーも映画『ナンガパルバット』でそう言っていた。その意味で、山がどういうものであったか?
意味の付与
は人が行うものであるから、その人にとってどういう意味がある山であるのか?ということが、やはり大事なことであるだろうと思う。
意味を紡いでいく
というのが、登山と言う活動の本質ではないのだろうか?
その”意味”の中身が、かつては、挑戦、という意味付けになることもあれば、無邪気な楽しさの追及、と言う人もいるだろうし、”興味関心の追及”と言う人もいるだろう。
かつては
・地図上の空白を埋める
・困難度を上げる
という2点にのみ意味が集約されていた。そのため、結局のところ、競争が起きることになった。国と国。会と会。競争は発展を産んだ。
しかし、価値が多様化すれば、競争は生まれない。競争が人間を発展に駆り立てるとすれば、発展がないことは、競争の不在を示し、競争の不在は、価値の多様化を示す。
結局のところ、我々は良い時代にいるのではないだろうか?
競争は人間にとって甘美なゲームだ。しかし、競争がなくても、足るを知る、ことで、人間は幸福な山を続けていけるのではないだろうか?
そのカギは、観察、オブザベーション、にあるのではないだろうか?
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