Friday, July 29, 2016

光と影

■ 光が照らしだす影

最近、素晴らしい仲間に恵まれている。

それで、分かったことがある。光がないと影が分からないからだ。

”無責任”とは、”自分さえ楽しく登れれれば良いという自己中心的な考え”であること。

”無知”とは、クライマーは自己完結でなければいけないということを知らないこと。

■ 自己責任

山は自己責任と言われる。それが曲解されて、”自分だけは楽しくクライミングできたらいい”になってしまっている。ハイキングでもクライミングでも同じだ。

いつでもパートナーがいる状態にしたい、ということは、誰もがもつ思いだ。

それは、自分だけ良ければ良いというスパイスが入ると、自分のパートナーだけを独占したいと思うようになる。

いつでも自分のためにスタンバっていてほしいと思ってしまうのだ。それは相手に対して、敬意を持った態度ではない。

自分のパートナーが心配だからという理由だと、逆に言えば、他のメンバーは危険だとその人が考えているということだ。

ということは、自分のパートナー以外の人なら、危険な人と組ませても平気なのか?

まぁYESなんだろうな。 実際、私は、初心のころ、つるべも知らない人と組んでいるからなぁ(笑)。

私が信頼されていたというよりも、まぁ捨て駒というか、あんまり大事にはされていなかったというべきなのだろう・・・。

■ 光

陰については、最初の3年間で良く分かった。

光について、書こう。

光は、敬意に満たされている。相手へのリスペクトが最初にあるのだ。たとえ後輩であっても。

最初から、山をちゃんと分かっているな、いい子だな、という思いがあるものだ。人間性への敬意だ。

先輩は後輩を山に連れて行ってあげたい!この面白さを見せてあげたい!と思う。その善意が出発点だ。

一方、自分が行きたいから、ただついてきてくれればいい・・・というのは自己中心的な山だ。陰だ。

相手の命への責任感があれば、実力を無視した山行計画や基礎的なセルフレスキューなしの山は存在しなくなる。

■ 恩返し

自分が成長したら、今度は恩返ししたくなるものだ。赤ちゃんと同じで、人は誰でも最初の頃は、いろいろと世話にならなければ、色々なことが見えてくるようにはならない。

でも、いつまでも赤ちゃんではいられない。クライマーは自己完結でなくてはいけない。

自分の相手くらいは自分で見つけてくる力量が要るのだ。読図だって同じだ。たとえ一人でも山を下りれなくてはならない。

いつまでも自分で山に行けない人は淘汰されていく。

こうしたことを教えてくれたのは、良き後輩と良き先輩だった。

■ 考えなくていいこと

最近、陰については考えなくて良いことを理解した。これからは光だけを考えて行けばいいのだろう・・・

感謝と恩返しの連続が、山なのだ。

そうならない場合は、基本的にすべて自己中、影なのだ。





Thursday, July 28, 2016

up dates

2013~2015のフォトダイジェスト追加

2016.5.24 ナビゲーション表追加

Monday, July 25, 2016

山はパートナー次第

■ パートナー

週末は楽しく遊んだ。最近思うこと・・・山と言う活動は、

 パートナー次第

ということである。

パートナーにスキルのあれこれ文句をつけてくる人もいる。が、クライミング力があるか、ないか、そういうことは、基本的に重要ではないと最近思うようになった。

なぜなら、山は山だったら、どんな山でも、愉しいのが山ヤなら普通のことだからである。

以前私はバレエを長いこと習っていたが、上達すればしたで、初級レッスンでも、上級者は上級者なりに深い味わい方ができる。山だっておんなじなのだ。

だから、例えば、自分が慣れている初級の岩場に行っても、それはそれなりに楽しく登れるものである。熟練と言うのは、そうやって、自分にとっては、新しいとは思えない場所に連れて行くことで出来上がっていくものなのだろう。

それよりも大事なことは、

 相手を尊重できるか?

ということである。クライミングは人生道場であり、相手を尊重すること、を学ぶ場だ。

■ 自己都合だけの人

以前、人工壁に行った。一人で行っているから、当然その日は、じっくり一人で壁と向き合って、ボルダリングをしたいと思っていた。

・・・ところが、行くと 「あ~よかった~知ってる人がいた~」という風に、知り合いにつかまってしまった(汗)。 そのため、自分の課題には向き合えなかった・・・。

誰だって、自分で自分の課題を持っているもの。

であるから、ビレイヤーが必要、というのは、自分の都合であって、相手も同じとは限らない。

相手もリード壁をしたいと思っているとは限らないからだ。

そうやって相手の都合を考えることができるかどうか?ということが、クライミングにおいても、山においても、大事なことで、それができないとどうなるか?というと、結局命がかかってしまうのだ。

この時も、不本意なクライミングを強いられ、フォールして、床から50cm。

■ Noと言えない自分を反省

ただ、この時は、Noと言えなかった自分を反省している。

ときどき、驚くほど、相手のことを考えられない、自分中心の発想の人もいる。そういう人は、一事が万事そういう言動だから、こちらも慣れてしまって、「負けるが勝ち」と相手に合わせてしまう・・・のは、大人はみなそうするから、だ。

やってはならないことの定番は

・怖がっている人に、リードさせる

・相手の実力を無視したルートに行こうとする

などである。何しろ、命がかかっているのだから。

そうしたやってはならないことをする人が、いくら「登ろう!」と言ったって、登るのは自分である。登れないところを登る羽目になったら、それは自分にも非があるのだ。

登りたくありません、と言う人間の強さが必要だ。

■ 思いやりと歩み寄り

結局のところ、信頼関係は、互いの歩み寄りである。

相手を理解しようとすること。互いの都合の接点を見つけること。

そうしたことは、想像力と知力を必要とする。

思いやりとは、今の相手に何が必要か?自分が相手に何をしてやれるか?

を想像することである。

自分のニーズを主張して、相手のニーズよりも自分のニーズを満たそうとする・・・そうしたことが起こりがちなのがクライミング。

大事なことは、そうした”自己中”クライミングではなく、”心の山”を続けていくことだ。



Tuesday, July 19, 2016

登山の成功

■ なぜ山に登るのか?

なぜ山に登るのか?

以前、その問いに私が出した答えは、

 素晴らしい思い出を作るため

というものだった。

後年、振り返って、にっこりすることができる、楽しい思い出を蓄積すること。

■ 成功の形

この海の日には、友人の自宅パーティに招かれて出かけてきた。

思い出を共有する仲間がいること。

思い出は一人でも振り返ることができる。しかし、共有することができれば、喜びは行く倍にもなる。

それは、一つの成功した登山の形だ。

そういう仲間を得ることができるような、そんな登山を続けて行かなくてはならない、ということなのだ。

■ 足るを知る

山に登ると、生きていることだけで人間は十分なのだ、と誰でも一瞬で理解できる。

一瞬一瞬を真摯に生きたか?それだけが死の床で問われることなのだろう。

自分の小さなエゴに囚われず、後悔の無い時間を過ごしたかどうか?

悠久の時の中の、一瞬の命、人生。その貴重な時間をどう使うか?それは人間次第なのだ、ということだ。

愚痴を言って一生を過ごすもよし、小さな競争に明け暮れて過ごすもよし、自分の使命に捧げるもよし。

それが人間にだけに与えられた選択肢であり、ファンダメンタルチョイス、と言われるものである。

■ 山での死

そういう風に山で感じる・・・と、山での死については、ただただ、もったいない…という思いしか浮かばない。

山の難易度をどんどん上げて行くような山はしたくない。

そこには、自分を証明したいというエゴしか感じられない。どういう風に山を選ぶのか?グレードなのか?それとも他の要因なのか?

その人の山は、山の選び方に現れる。自分の山をやっていくことは、誰かに「すごいですね」と言われることよりもはるかに重要だ。

≪前穂北尾根の回想≫

Thursday, July 14, 2016

感謝の気持ち

最近、本当に感謝の気持ちがふつふつと湧いてきている・・・

私のクライミング人生は、このブログで色々なアドバイスをもらえなかったら、早期に終わっていたかもしれない・・・というか、早期に終わらざるを得なかったかもしれない。

現在は、私自身が、素晴らしい人たちだと思える仲間を得た。それも、ほとんどが偶然の出会いによるものである・・・。

後は私が登攀力をあげ、経験を積んで行けばいいだけである。

今日は、だいぶ前の四尾根研究の記録を再読した・・・

ヨセミテさんという方が、アドバイスをくださっている・・・振り返って再読していると、心配が見えるようだ。

とても感謝している。

後輩と山に行きたいと思うと、色々と相手の命に対して責任を取るため、自分自身が技術を身につけないといけない、ということになる。

相手の命の尊重は自分の命の尊重と同じだ。互いに互いを大事にし合える間柄の仲間を持てて、本当に幸せなことだなぁ・・・と感じている。