前の師匠の時は、少々不満を持っていました。ロープワークや支点作りなど、体系的に教えてほしい!と思っていました。原則で教えて欲しい!と書いている記事がそれに当たります。
しかし、山は、究極的に言えば、安全でありさえすれば、どっちでもいい…と言うことが多く、正解が複数あり、しかも状況に依存するので、体系的には教えられないのです・・・
教えられるとすればケーススタディです。
例:ケース1
セカンドがヌンチャクを落としました。どう取りに行きますか?
1)その登っているセカンドをローワーダウンする
2)セカンドをあげてから、トップが懸垂下降で降りる
3)セカンドをあげてから、トップがローワーダウンで降りる
登り方は
4)上にいるほうがトップロープで確保する
5)クライマーがグリグリで自己確保しながら上がってくる
と、3×2 6通りの選択肢が… もっとも楽だったのは、セカンドを下して、拾ってもらい、上に上げることなのに、この時師匠は、もっともまずい選択肢を取りました。
自分が降りて、しかもグリグリで自己確保しながら上がってきたので、クライマーが上がってもロープは上がっておらず、ロープを引き上げたらクラックに引っかかってしまい、再度降りる羽目に。なので、3回も同じところを登ることになった… しかも、トップをしている人が。
一般にトップの体力温存がセカンドの体力温存より重要なので、これは変な選択肢で、指摘したら、「ごめん、まだガイドの気分が抜けていなくて」という話でした。
普通はセカンドのミスはセカンドが落とし前をつければいいことだし、クラックを登るときは引っかかりやすいので、ロープは上にあるのがいいに決まっています。グリグリで登ると言った時、上で確保するよ、って言ったのに彼は断ってきたのです。向うはベテランですから、彼にも考えがあるのだろう、と私などは考えてゆずります。が、結果はひっかかったので、やっぱり私の方が正しかったですね。
…と言う具合に、ベテランでも判断を誤ります。まぁこれくらいの判断ミスなら、何も危険は増えておらず、単に時間ロスなだけですが…雪の山でルートファインディングの判断ミスなどは、非常に危険です。リンデワンデリングしてしまえば、死んでしまいます。阿弥陀北稜では、私の会の自称ベテランの方は、判断のミスで、仲間3名に凍傷を負わせました。
そして、私が最も懸念するのは、
自分が間違っているかもしれない可能性を内包せずに、男性の山ヤは突っ走ってしまう
ということです…。
間違いを内包しつつ、常に前の判断が正解でなかった可能性を感じながら進み、間違いに気が付いた時点で修正し、前進する、というのが山の基本です。
その基本を習得するには、自分が間違っていた、という経験をたくさんする必要があります。しかし、自分が間違っていた、山との対峙に負けた、と言う経験を、若く体力が一杯の時の男性が経験するのは難しいんです。体力がありあまっているだけに、山での困難が判断力ではなく、体力でカバーできてしまいます。
上記の師匠の例も、彼は3回も同じところを登らなくてはならなくなり(私が2回登れば済んだところを)、しかも彼はトップなので、この山で彼が登れなくなったら終わりなのですが、山自体を易しく設定しているので、3回も同じところを行ったり来たりしても、このルートはこなせたので問題なかったです。体力のおかげです。
この体力がなければ、上のほうのピッチで「もう登れない、体力がない」ということになり、「じゃあ、降りましょう」になります。フリーのルートだったら、降りるのもカンタンでいいですが、アルパインだと降りるほうが大変で、体力使いきっていたら、即、命がけ、です。降りるより登るほうが楽ってのは、誰でも知っている常識でしょう。
というわけで、体力というのは、判断力の稚拙さを大幅にカバーするのです。
そのため、体力が豊富な若い男性は、判断力を養う経験がなかなか積めません。
経験が積めるとすれば、…今優秀なアルパインの先輩を思い浮かべているのですが…自分にとってギリギリの山を重ねてきた人…です。しかも、男性だけのパーティでもリーダーで…つまり、男性の社会の中でも優秀なリーダークラスの方です…私が山岳会に勧誘されたのは、このような方ばかりですが…
は、判断力の的確さがその人の山の大きさである、と分かっているので、無謀な判断はしないのです。仲間の命にたいして責任を持っているからです。
と、まぁ、ちょっと話がずれましたが… 要するに体力があると、判断力が学べないのはこのような理由からだと言う実例です。判断にも色々ある、という実例でもあります。
私が思うには、山ではケーススタディが最も有効です。しかし、そのケースは、山にいくことでしか発生しませんから、だから伝統的に、山のことは山で学ぶ、のです。
山で過ごした回数がモノをいうのはそのためです。
■ 咀嚼力
なので、教わる側が咀嚼力を上げるしかないです・・・ その力がない人にどれだけ教えても無駄ですので、教える側があきらめます(笑)。
咀嚼力があるかどうか?は、山行の報告を聞けば分かります。ですから、伝統的に山岳会では山行報告をきちんと書かせます。これはきちんとリスクとその対処法を学んだか?を見ているのです。
リスクとその対処法をよく知っている=それが山ヤの実力です。
凄い山に行ったかどうか、ではないのです。
ちなみに 阿弥陀北稜へ無理に突進し、仲間に凍傷を負わせた人より私は実力のある山ヤです。計画時点でその無謀さをみぬいていました。
しかし、その人と私が並んだら、一般の人は、おじさんである、その人を頼り、私を頼りにすると言うことはないでしょう。(私も頼りにされたくないのでいいんですが) 私が逆の立場に立った時だって登山歴◎十年らしい、風格の合るオジサン登山者のいうことのほうが真ぴゅう性があると思い、若くて、小さな女性の言うことはあまり耳に入れないでしょう。
私が言いたいのは、実力と他者評価は異なるということです。
したがって、私自身もよくよくホンモノの人を見際わめて、いっしょに山に行かないと、たかだか阿弥陀北稜ぐらいの初心者ルートで殺されたら、眼も当てられません…。
南谷真鈴さんは、エベレストを登った方ですが、彼女は阿弥陀北稜で滑落し一度遭難しています。しかも、ガイドさんに連れられたガイド山行で、です。その前にルートを熟知するような登山をしたか?というとしていないと思います。彼女は山では決してやってはいけない、見知らぬ沢を下るということをしていて、一晩の後に発見されたのは強運としか言えないというのが大方の山ヤの見方です。これも運と体力が味方した事例です。
この事例を出すのは、これほどの人でも、ニセモノのガイド?と行くと、ひどい目にあうという話をするためです。阿弥陀は下山の方が危険なのは、登山する人の常識です。登るより下りが危ないなんて、知らない人はいません。しかも滑落後彼女は、携帯で救助要請しているのに、電話に出なかったんですよ、そのガイドさん。
北稜は基本的に入門者ルートです。その入門向けと言えるキモは、山を舐めているかどうか?の試金石ということです。
体力過信で、山の気象やプランニング、判断、雪崩れ知識など、体力以外の部分をないがしろにしてきた人にはしっぺ返しがある、という点で試される、良きルートなのです。
■ イライラはいいサイン
もし山を学んでいて、イライラ期に入ったとすれば、それは成長している時って意味です。
ものすごくイラつけば、すごく考えます。
考えても考えても良く分からない・・・
その時は心に保留しておきます。そしてそれをお酒の席で出す。盛り上がります(笑)。
例えば、私は、真砂尾根行った時、先輩がどんどん雪の急斜面…川の側壁…を上がりすぎて、怖かったんですよね。上がれば上がるほど、落ちる距離が長いので。
沢登りでも、滝を巻いていて、降りることを考えずにどんどん上に行く人が多いです。
友人の女性でも、ホント、危険を認知しない人がいて困りました・・・草や灌木などの手がかりが無いところを行こうとするのです。しかも、一回、墜ちかけた。
この人は危険認知力がない点で山やに向いていない、と判断され、山岳会から追い出されたそうで、かわいそうと思い一緒に山に行っていたのですが、ビレイパートナーも欲しかったし… あまりにも危険を認知しないので、無理だなぁとなりました。
危険を認知して、それに対処するのが楽しいというのが山で、危険を無視してどれだけ行けるか?というのはタダの肝試し。
■ プロの報告例を聞く
危険を認知して、それに対処するのが楽しいというのが山で、危険を無視してどれだけ行けるか?というのはタダの肝試し。
■ プロの報告例を聞く
海外遡行同人の会なので報告を聞くと、こういう危険認知と、それをどう回避したか?ということに自然と話が収束するみたいで、そこが山ヤだなぁと思います。
質問も、危険とその回避したやり方、結果、どんな感想だったか、という点が多いです。
一方、危険認知がない山をしていると、ただ景色がきれいだった、ということで終わりです。
一方、危険認知がない山をしていると、ただ景色がきれいだった、ということで終わりです。
アルパインをする、山をする、ということは、危険を含めた、山の本当の姿に接していくということです。
本来、山とはそういうものですから、アルパインをする前はまったく山をやっていたとは言えない。
私自身が気楽な山登りと自覚してやっていました。自覚があれば、それでいいのです。ハイキングはハイキングに自らする、ということです。暴風の日に突っ込む判断をすれば、ハイキングの山をハイキングの山ではなく命がけの山にした、ということです。
山は、自然の一部です。どんなにハイキング程度の山、と言っても、悪天候というリスクはあります。したがって、人間側が判断をしなくてはいけないと言うことは、ほんの小さな一歩からでも始まっているのです。
それをしないで、人の跡について行く山をしていると、一生山に登り続けても、その人は山との対峙法を学ぶことができません。
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