■ 焼き場に立つ少年
今朝は、この写真からスタートしました(笑)。
焼き場に立つ少年、
と題されたジョー・オダネル氏による写真です。
こちらの写真の衝撃は、言うまでもありませんから、ここでは触れません。
恐ろしい… そう言う気持ちを持たない人はいないとおもいます。
戦争下の社会自体が崩壊した中で、親もなく、家もなく、この後、この少年はどうやって生きたのでしょう… 食べるものはどうしたのでしょう…
■ 無知と恐れ
驚いたのは、この写真が乗せられていたサイトに寄せられていたコメントです。
原爆投下を正当化し、2017年の現代の軍拡を主張していました。憲法9条を擁護する人を、「頭がお花畑」とののしるコメントがたくさん…。
その人たちの発言の出所は、無知 と 恐れ の二つです。自分がやられる側になると恐れているのです。
私はアメリカに若いころいましたから、アメリカ国内で、原爆投下正当論が一般常識として受け入れられているのを知っています。それはただの一般的な見方にすぎず、ほとんどの人は、単純な無学で、”他の人も受け入れているから”と言う理由でそう思っているにすぎません。日本だけに、”大衆”がいるわけではないのです。相当な学がある人の間にも、この考えは広がっており、教科書が教える都合が良い史実が、他国の例にもれず、アメリカでも作られていることがうかがえます。この事実から学べることは、政府(権力)が、非を認めるのは、それだけ難しいことだ、ということです。
国際関係論を大学で学びましたから、冷戦構造や核の抑止力によるバランス理論も知っています。カンタンに言えば、双方がにらみ合っていれば、発射できないという理論です。
■ 正義は心のレベル
しかし、そういうのは、頭で考えたことです。
心で感じ、魂が揺さぶられる次元のことではありません。
原爆投下後の広島・長崎を見て、魂が揺さぶられない人間は、この世にいないのではないか?と思います。
このような目にあいたい人間は一人もいません。
自分がされたくないことを人にしてはいけない
と、世界中のどの宗教も教えます。宗教でさえなくて、ただの一般常識です。
非暴力、アヒンサの原理は簡単で、幼稚園生でもわかります。隣の子をぶっちゃダメなんです。ただそれだけです。
しかし、理性はいともたやすく、このレベル…5歳児でも知っている善…を覆してしまうのです。
■ 心の声を聴く
だからこそ、理性を手放し、心の声をダイレクトに聞く、という東洋的なアプローチ…代表としては、ヨガや瞑想などが、西洋の社会で注目を浴びるようになったのかなぁ…と思ったりしています。
思うに… 山も同じです。
ダイレクトに心に語りかけてきます。山で朝日が昇るのに立ち会い、地球が美しいと感じない人は、ほぼ皆無でしょう。
美しい地球を守らなくてはならない、と感じない人は、いないと思います。
現代社会は高度化され、心や魂で”感じる”ことよりも、理性で”考える”、”判断する”ということが重視されます。
ですから、こうした直接心に問いかけ、原始的と言っては語弊があるかもしれませんが、より生命の本質に近い部分で、ごく単純な部分で、善悪を感じることが大事なことです。
すべての生命体にとって、善悪は単純です。死は悪で、生は善です。
心で感じたことにたいして、理性が異なる判断をするときは、より高次な理性のほうの判断が間違っています。心理学では認知の歪みと言われています。
理性による判断の大筋を間違わないよう、心に立ち返る体験…つまり基本に立ち返ること…が、現代では、より一層必要なのではないか?と思います。
それが、自然に触れるあらゆる活動、瞑想、ヨガ、その他の心に立ち返る活動、が必要な理由です。
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