■ 貶める
最近出かけたガイド山行で、常連のお客さんたちが、「北岳バットレス四尾根に行った」と言う。「この人、セルフ外しちゃうんですよ~」 どうも初心者の人だからのよう。
基本的にセルフを外すことが危険行為だと理解できないような段階の人を、そのような危険がある山に連れて行ってはいけない、というのが大方の、”責任ある大人”のものの考え方である。が、そこでは、位置づけは笑い話というもの・・・。笑い話なら、まだ良いが、武勇伝と化す寸前だった。
なぜなら、その人はヒマ○ヤでシュルンドに落ちて、行方不明になり、「置いて帰ろう~ 最初からいなかったことにしよー」と思われちゃったらしいのである。もちろん、これは照れ隠し交じりだと思う。
だが・・・、真意は
”これくらいの(低い)スキルの人(きっと、あなたもそうでしょう)でも、ヒ○ラヤへ連れて行けちゃうよ~(私と一緒なら)”というのが真意
であろうことくらいは、分かってしまう。
■ 偉大さを喪失
ヒマ○ヤに憧れはなかった。ただ敬意はあった。
登山史におけるヒ○ラヤの地位は不動だ。名だたる名登山家たちの名が連綿と連なる、ヒマ○ヤの歴史・・・。
ヒ○ラヤに行きたいとは思わなくても、敬意を示さない登山者というのはいまい・・・
しかし、その話を聞いて、その敬意の気持ちが、急速にしぼんで行った・・・。
もう、すでに”腐っても鯛”ですら、なくなっているのだ。そのことが、この事例から分かった。
山に地形図を持ってくるのが当然だと知らない先輩が、厳冬期の北岳に登ったと聞いた。厳冬期の北岳の価値が急速になくなった。その人が行ける程度の山なら、行かなくていいや・・・という気持ち。
山は歩けなくちゃ話にならない。が、歩けるだけでも話にならない。
歩けるだけじゃ話にならないところを、歩けるだけで済む話になってしまっている、現代の登山の
事情・・・
一体どうしてこうなってしまったのだろうか?と思っていた・・・こういうタイプのリーダー・・・が、良かれと思って、そうしてきたのだ、ということだった。
■ ブルータス、お前もか
「ブルータス、お前もか?」という気持ちだった。その人のことは著作などから、大変尊敬していたからだった。
四尾根にしても、連れて行ってもらうだけなら、誰だって行ける。
自ら、ルートガイド集を買って、何ピッチのルートで何時間かかりそうなのか計算する必要はない。
岩トレに出る必要もない。
今のスキルで、何ピッチに何時間かかるのか、計算する必要もない。
ルートファインディングする必要もない。
ロープワークの練習をする必要もない。
支点の研究をする必要もない。
万が一、間違った時のために、装備を研究しておく必要もない。
落ちた場合に備えて、救急救命法の訓練を受ける必要もない。
レスキュー訓練を一緒に行く仲間としておく必要もない・・・
”ついていく”以外なんの資格も・・・もっと言うなら、”努力”も必要ない・・・。
したがって、そのような四尾根なら行く価値がない。そのような山なら、どんな山も行く価値がない。
人生は短く、時間は貴重だ。
限りある資産なのだ、時間もカネも。だから、本当に価値がある、と感じられることに使わなくてはならない。
■ 素人扱いを喜ぶ人はいない
どんな世界においても、”あなたはド素人”と想定されている・・・ということに、喜ぶ人間はいまい。
そして、価値を失った山・・・体力さえあればいいだけの山・・・に喜ぶのは、山の世界では、ド素人だけなのである。
つまり、私は、ド素人扱いを受けたことになるのだ(^^;)。もちろん、これは、論理的帰結としてそうなると言うだけのことだ。
「○○へ連れて行ってあげる♪」 と発言する人は、本当に、相手が喜ぶ山に連れて行ってあげたい!と親切心から、あるいは職業的事情から、あるいは商売上の理由で、思うのだろう・・・
でも・・・、残念ながら、すでに、努力なしで手に入る山・・・が価値がないものである・・・ということは、分かるようになってしまった。
■ 素人並みの実力しかない
もう一つの論理的帰結は、ド素人並みの実力しか、実際のところ今の私にはないのだろう・・・ということだ。
ないものは、ないもの。今の姿を素直に見つめ、不足しているスキルは獲得する、だけだ。
それが、自己肯定感を高める唯一の道である。今までもそうして来たし、今からもそうするだけなのだ。
素人でも行ける山だからと言って、素人で行く必要はないのだ。
あらゆることの
価値は、自らが作り上げるもの、なのだから。