Wednesday, August 6, 2025

小窓尾根遭難報告書から見る【現代クライミングのナラティブの空白】

私はHSP気質が強く、視覚的にきついものに耐えられません。子どもの頃、「8時だよ全員集合」の暴力的なコント演出が見られず、自室に戻っていたほどです。大人になってもそれは続き、手術書を翻訳していた頃、実際の手術見学を依頼されましたが、視覚的負担を理由にお断りしました。

そんな私にとって、「小窓尾根の遭難報告書」に目を通すこと自体が、非常に辛い作業でした。

なぜなら「遺体の一部を発見」といった表現に、感覚的な限界が押し寄せてくるからです。

ただ、その中で、一緒に登っていた先輩の寄稿だけは、比較的平易な言葉で書かれており、そこから読み始めました。

残された遺族と、登山界のメンバーでは、この遭難の受け取り方がやはりまったく違う、と思いました。

残された遺族のほうは、なぜ…なぜ…という、ぐるぐる思考が止まらず、ひたすら、理不尽な立場に置かれます。

それは弟を24歳の若さで、突然死で亡くした私と同じです。遺族についてのメンタルケアでは、山岳保険の内容に、遺族へのカウンセリング費用、10~20回分(平均的費用1回1万円)を上乗せするべきだと思いました。

一方、登山の知識がある側は、”いつもの光景”感…繰り返される、情熱と知識不足、経験不足の綱引き・・・。

いつも出てくる言葉はブロークンレコードのように「経験不足」。

でも、何を知って何をやっていれば、経験不足ではないのか?

そこが記録から読み取れることはないように思いました。

何を知っていれば「経験がある」と言えるのか?
何を判断できていれば、「経験値がある」と評価されるのか?

少なくとも劔や小窓尾根についての基準がフィードバックされなければ、死者は浮かばれません。

例えば、山の数を何回重ねていても、天候についての判断を他人任せにしていては、経験値、ということにならないです。

冬山の経験数が…は、とてもよく聞く言葉ですが、湿雪の谷川の雪と乾いた雪の八ヶ岳の雪は、まったく違い、経験の中身も違う。

私などは、一度谷川の雪を経験しただけで、私の体力では、北アはないな、と思いました。安全地帯から、登山エリアまでが深すぎるうえ、一度天候が荒れたら回復するまでの期間が長く、私の体力では、7日間の雪洞泊に耐えられないだろう、というのがその理由で、もっぱら私は北アは春山合宿でお世話になる山でした。春山でも雪崩の危険はありますが、シビアな天候で缶詰めになる可能性は低いからです。また深くないエリアを選びます。

というわけで、雪の山は私にとっては太平洋気候に属する八ヶ岳、ということになりますが、八つどまりであれば、何も仲間を募って登らなくても、登れる雪の山はたくさんあり、静かなルートも小海線方面から登れば得られます。一人ならば、小屋をつないで登れば、自然な形で監視してもらえ安心。雪の山が好きだった私としては、地獄谷とはお近づきになりたかった思いがあり、まだ未練が少しありますが。

そんな未練を持った私でも、経験不足の男性から、上ノ権現沢のアイスクライミングに誘われたときはお断りしました。地獄谷は、会での山行で私が連れていく側で連れて行った場所です。それでもお断りしたのは、この方、のちに白亜スラブで判明しますが…ロープへの理解が皆無に等しく、なぜか何度複数の人から、詳しく説明され、叱責されても、理解ができないみたいだったからです。

ロープスケール(ロープの長さ)を考えながら登らなければ、登れなくなる…。20mのロープで25mは登れないですね。

そんな自明の理と思えることが、なぜ、分からなくなるのか、ということが私の問いに上がったため、心理学を勉強することになりました。(いまだに理解ができないので、どなたか分かる方には教えてほしいです)

私なりのこの人と、この程度ならば登ってもいい、の境界線は、フリークライミングの岩場あること、アルパインではないこと、でした。それで白亜スラブはアプローチが5分という下界への近さですので、受諾することになりましたが、まさかロープスケールを考えずにリードしているとは、予想外でした。

同じことでたとえ100名山を制覇していても、それが地図読みや天候判断、危機管理能力と結びついているかは不明です。

さて冬山の小窓尾根に戻りますと、私の失敗(白亜スラブ)との類似点は、これだけの経験値があれば、○○ということくらいは分かっているだろう、という予想が働くこと、その予想がたいていの場合、外れ、経験数で、その人の(内省の量)や(理解の深さ)が図れることはないということだと思います。

たとえば、ヨセミテに行ったことがあります、と言っても、誰かについていっただけなのかもしれませんし、5.14が登れますと言っても、コーチにここを登りなさい、と言われただけかもしれません。

非常に突出した能力の、1点を強烈に高めて、それだけで勝負し賞賛を得るというのが昨今の下界での戦い方、つまりゲームになっています。それは良い面もあるのですが、、総合力と言われる登山の分野では、普通に通用していていない。通用しないことも理解されないため、遭難者数を過去最高に高める結果になっています。

100名山をしていたということが示すのは、経験の豊富さや山自体への愛着ではなく、スタンプラリー好きの性格ほうかもしれません。それはその人に意図を聞いてみなくては分からないのに、周囲の人は、山が好きの一言で、あまり解像度を上げずに終わってしまいます。

そこは、阿吽の呼吸で、自分を表現せずとも周囲の人が分かってくれる日本文化のマイナス面かもしれません。

よくもわるくも、ああ、この人は山が好きなんだなぁ、で、周囲も、また本人も、大まかな捉え方で納得してしまい、山の何を追いかけていて、何を愛し、何をしようとしている人なのか?ということに、問いかけが足りていないかもしれません。

山が好きにもいろいろな内容があります。私が山を好きなのは、瞑想だからです。ですので、さして危険でもない、普通のハイキングで、誰かと出かけるとしたら、それは交通費の折半のためです。できれば、ひとりで歩きたいというときが社会人時代は多く、それは一人になってリフレッシュしたいからでした。

一方、年配の女性は、一般的には社会から疎外され、孤立しているので、誰かと話をしたいニーズが強く、道迷い遭難原因の第一位が、おしゃべりしすぎで、分岐を見落とした、というものです。こうしたニーズは格安のツアーで叶えられることが多く、そのツアー内容がどんどん北アに拡大して、無謀な団体登山に変貌している状況を小屋のバイトではつぶさに見ました。

このように山には、おのおの個別のユーザーについて、ニーズがあり、おそらく小窓尾根に向かうアルパインクライミングをするようなメンバーの心理的ニーズは、チャレンジだと思います。

チャレンジと仮定すると大事なことは、課題と実力のマッチングです。

山とは切り離して、チャレンジ自体が、忌避されている日本社会で、チャレンジが唯一推奨されている世界が登山界かもしれません。

しかし、責任あるチャレンジに必要な、何をわかったら行っていいのか?という山に関する理解の解像度が一向に上がっていきません。

山に関する理解の解像度が上がっていかないとはどういうことか?

と申しますと、私が報告書で見つけた一つの記述事例は、

ーーーーーー
通常、雪崩の起きそうな斜面では、全員が巻き込まれるのを防ぐため、ある程度距離を置いて行動する
ーーーーーー

でした。 

ある程度ってどの程度?

雪崩の可能性がある斜面でどの程度離れたらいいかに限らず、これが山岳会で皆で共有すべき問いの一部です。

たとえば、ロープを出すのは、どの程度?
懸垂下降でノットを結ばないとしたら、どの程度の経験値から?

こういうとき、どうする?は現場では、あきらか。地形の位置関係や雪の状態は見て判断するもので、言語化は膨大な努力がいるようになってしまいます。

昔は、こうしたことは、先輩を見て盗むものだったと思いますが、見て盗むという発想力が昨今だと欠如していたり、誰かが判断してくれたことにそもそも気が付かない、など。

日本人が非言語の情報を拾う能力自体が大幅に減っているうえ、スタンプラリーのような山をして得られるのは、スタンプを集めた快感と他者による承認でしかなく、経験値を言語化して積み上げていくことではなかったり、グレードや段級制、あるいはオンラインゲームの浸透などで、つぎつぎと飴と鞭のシステムで、課題をクリアしていけば、自動的に上の段階に行けて当然なのだ、というゲーム思考的な発想が根強くなりました。

とくにアルパインクライミングは伝統的にルート名で実力を示すという傾向がありその実力の中身が何であるか?は、ルートを知っている者同士だけが分かる秘密のコード、暗号ということになっています。

例えば、私は白亜スラブは確実に、実力を示したいと相方が望んで出かけた山だと思います。ローカル実力者たちに仲間に入れてほしかったのです。私はてっきり、私が台湾に一人で登りに行くので心配した相方がクラックをたくさん触らせてあげたいと思ったのだろうと、誤解していました。相手の意図を大幅に善意に解釈する癖が私の思考の偏りにあります。

懸垂下降でノットを結ぶ/結ばない、ロープを出す/出さない、その「どの程度」が判断される根拠も、先輩の動きを“見て盗め”で済まされてきた文化のなかでは、共有されません。

しかし今、私たちは「見て盗め」が通じない世代とともに山に入っているのです。
だからこそ、言語化の努力が必要になっているのだと思います。

さて、長くなりました。このような意味で、アルパインクライミングの世界は、今も昔も心理戦です。

一方で山に必要になる、知識や経験の中身がどのようなものであるか?のナラティブの空白、言語化の遅れ、それは、日本だけでなく、世界的に見てもそうです。

「経験不足」と言われても、経験の“中身”が語られていない。


同じルートを登っても、“判断力をどのように使ったか”の質が違う。


ルート名だけで実力を語る、暗黙知の世界。


「あの人は山好き」→ その「好き」の意味を誰も掘り下げない。

→ これらが現代クライミング文化の「ナラティブの空白」です。
その空白を紐解くことが、山を登る楽しみなんですよ

悪天候一つ例にとっても、九州の夏山で雨にあったところで、合羽を着なくても、だからなんだ程度の話で、気温が高いので、濡れたまま作業する農作業者もいるくらいです。なんせ、気温が高いので合羽を着たら中で汗びっしょりになるだけなのです。着ても一緒なので着ないという判断も合理的なのです。

そんな経験を、夏の北アに応用してしまうと?合羽を持っていたのに着なかったという超有名な遭難があります。こうした遭難の事例を、登山者はあらかじめ学習しておくということが有効な遭難防止策と賢明な登山者育成に有効であると思います。

群盲、象を評す、という言葉がありますが、まさにそれが起きていることです。

大山に登れても、劔とは別、そういうことが理解されていないで、冬山経験で、ひとくくりにされるということです。冬山経験の中身も紐解いていかないといけないのです。

例えば、私なら、八ヶ岳はかなりの経験がありますが、北海道は未知なので、偵察は車道から見えるレベルの氷瀑を見て終わりです。

さらには、登山やクライミングでは、それぞれの山の固有の知識を、地方と都市部の対決的構図で、プライドとミックスにしているのが、ややこしさの源泉です。

都会人へのコンプレックスから、わざと相手を貶めるような方策でコンプレックスを解消しているのだ、と田舎の人に言われましたが、そうやって、知らない人を馬鹿にすることで、自分の自尊心を満足させる、という手法をやっても、自尊心は満たされないと思います。 

逆にそうしてしまうと、日本人らしい謙虚さとは無縁の、学びのない世界観ができてしまいます。平易な言葉では、イケイケと表現されています。

日本人が苦手な自己主張をあえてしたときの、その主張に仕方の落とし穴は、まさにここではないかと思います。

相手を下げることで自分を上げようとしてもむなしいだけです。

その端緒は、”経験値”の一言で片づけることの、無自覚さ、です。

語られるべきは、”経験の中身”のほうです。

伝えていきましょう、ロートルを自覚する皆さん、あなたの経験の中身を。
それらは、過去の武勇伝ではありません。

未来のクライマーへの愛のメッセージです。

技術は新しくしなくてはなりませんが、自然界の脅威は何十年たっても色あせぬものです。





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