Friday, May 30, 2025

クライミング界の“事故”はなぜ繰り返されるのか?— 見えない加害構造と女性への沈黙圧力

祝子川で死んだのは、私だったかもしれない

—「男の山」から命を守るために、声を上げるということ

日本のクライミング界で、私は思いがけない攻撃を受けました。
ある沢登りの事故に関する私の問題提起に対して、指導的立場にある男性クライマーから、こんなメールが届いたのです。

「その意見は、女性を死なせてしまった男性を追い詰めることになる。撤回すべきだ」

事故が起きたのは、祝子川(ほうりがわ)の沢登り。
女性が滝で転落し、命を落としました。パートナーだった男性は、誰の目にも明らかなリスクに対する備えをしておらず、基本的なトレーニングさえ怠っていたと言われています。

私だったかもしれない。
そう思わずにはいられませんでした。


なぜ「普通のリスク」が、見えないのか?

私にとってはごく当たり前に予測できるリスクが、なぜか多くの男性クライマーには見えていない。
それを指摘したり、「この人とは同行できない」と判断すると、逆ギレされたり、怒鳴られたり、精神的に揺さぶるような言葉を投げかけられることが、少なからずあります。

この反応は単なる個人の性格問題ではなく、日本社会に根付いた女性観や、男性の自己評価の脆さが影響していると私は考えています。

特に、「自分は頼られる男である」「登れる男は尊敬されるべきだ」と信じているような男性にとって、女性からリスクを指摘されること自体が、自尊心を大きく傷つける出来事になるのです。


「男たちの空気」が生み出す事故の温床

日本のクライミング界は、いまだに**ホモソーシャル(男性同士の同調圧力と評価体系)**に強く支配されています。
「男同士の空気を乱すな」「おまえだけ女を特別扱いするな」
そんな無言の圧力が、判断を鈍らせ、備えを怠らせ、結果として事故を引き起こす土壌をつくっています。

この文化的構造は、西洋のクライミングコミュニティにはあまり見られないものです。
あちらでは、男女関係なく合理的にリスクが共有され、意見を述べることがリスペクトされやすい。

ところが日本では、女性が「これは危ない」「あなたの装備・知識が不十分」と言っただけで、男のプライドを傷つける存在として攻撃対象になる
そうして、結果的に――殺されてしまうのです
「事故」と呼ばれているけれど、準備不足が原因なら、それは過失致死であり、殺人とさえ言える状況もあるのです。


なぜ事故は繰り返されるのか?

・事故の報告書は当事者間で作成され、一般公開されない
・社会的な教訓として共有されず、再発防止策も立たない
・被害者は泣き寝入りを強要される
・社会はその構造に気づいていない
・内輪の人間たちが、加害者の名誉や地位を守るために動く

これらの構造は、**日本の性被害やいじめ事件の“もみ消し”**に酷似しています。

そして、一般の男性たちは、このホモソーシャルな構造に自覚がない
無意識に「加害者を守る側」に立ち、「彼を責めるのは酷だ」「一方的に非難するな」と言う。
なぜなら――自分の中にも、同じ加害者性があることを感じているからです。

被害者の命よりも、加害者のメンツと居場所が優先される。
その代償が、「命」だったとしても。


それでも、希望はある

最近は、日本でもホモソーシャルが通用しない場面が増えてきました。
声を上げる女性が増え、同調圧力から自由になりつつある男性もいます。

そもそも、ホモソーシャルの根底には、男性たちの低い自尊心があります。
経済力もパートナーもなく、社会的な承認を得にくい「弱者男性」が、
クライミングという非日常の舞台で“一発逆転”を狙っているのが今の日本社会の現実です。

「登れる男になれば、認められる」
「トロフィーワイフのように、女性がついてくる」
そんな幻想が、山の現場に命を落とす人間を生み続けています。


私は、声を上げる。

私は、信頼できない相手と二人きりで行かないと決めた自分を、誇りに思います。
そして、今回の事故の背景にある「構造」に目を背けたくありません。

加害者の心情には過剰に配慮しながら、同じ事故を繰り返さないための再発防止には、誰も配慮しない。
だから事故は減らない。だから、また誰かが死ぬ。

私は、あのとき行かなかったことで生き延びました。
けれど――行っていたのが、誰か別の女性だったら?
その人が、泣き寝入りさせられているのだとしたら?
私には、黙っている理由が、もうありません。


参考:

https://toyokawa-ac.jp/sawanobori/39454

https://stps2snwmt.blogspot.com/2024/05/blog-post_29.html