Friday, November 9, 2018

自分が作った課題で人が死んだら?

自分が作った課題で人が死んだら?

どう思うのだろう?と、ふと思った。

初登者には、率直にすごいな!と敬意を感じる。が、基本的に山登りは楽しくてしているため、すごい!と言ったところで、それは自分が楽しくてやったまでのこと、でもあるだろう…。

ピオレドール賞を取るようなクライマーも、フリーソロのクライマーも、楽しいからやった、と皆、口をそろえている。

そこには他の人のため、という視点はない。利他や愛他の精神は存在しない。

別に悪いというのではない。

ただ自分が楽しいからやっているということなだけだということだ。

自分の作った課題で人が死ぬ、ということは、クライミングだから当然ありうる。それを考えない課題設定者はいないだろう。

さてさて…

1)ピンのランナウトは、再登者に舐められないため、だそうである。

2)グレードの辛さは、東京方面の再登者に舐められないため、だそうである。

よそから来た人が、その課題を登って

      「簡単だな」と思われるくやしさ vs 命の重み

では、 前者が勝ったということで、それは明らかにエゴイズムの勝利であるように思われる。

そのような愚かしさのために、例えばランナウトで死んだ人がいたとするなら…?

それこそ、犬死というものではないか? 他人の自己顕示欲のために死んだということなのだから…

先駆者や開拓者には栄誉が与えられよう…が、そこには義務も生じるはずである。

後に続く人の安全を守るという義務が。

日本では強者の権利ばかりが主張され、義務のほうが守られていないように思う。

権利があるところ、責務もある。責務を果たしていないで、権利ばかりを主張するのは、いかがなものだろうか?

1 comment:

  1. ボルトルートなら、ボルトは少なければ少ない方がいい。それがスポーツクライミングのリードルートであっても。
    開拓者には再登者のことを考える義務はない。
    グレードは、その岩場である程度統一されていれば良い。2グレードくらいの差が生じるのは致し方ないと思う。個人によって得手不得手がある。
    開拓者はどうしても試登回数が多くなるので易しく感じる傾向がある。

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