Friday, January 24, 2020

お客様感謝デーの山…またはいかにして客を逃すか

正雄は、駆け出しの登山ガイドだ。子供が6人いる。喧嘩っ早く、会社はどこも長くは続かなかった。それで職を失い、登山ガイドになった。ここ10年は山には行っていない。だが、高校時代からの山岳部で体力には自信がある。そんな正雄だが、問題は客が来ないことだった。これまで会社勤めだったから、独立したと言っても、何をしていいのか分からない。だから口コミでの紹介だけが頼みの綱だ。

そんな折り、都会からの移住者の女性客が来た。ずいぶん小柄な人だった。八ヶ岳の雪の山に登りたいから、ピッケルの使い方を教えてほしいのだという。ピッケルだと!その素人風情で、どこまで分かっているのだろうかと正雄は思った。これはお灸をすえてやるとするか。山は甘くないってことだ。どうもこれまで夫婦でいくつか雪の山に登っているらしい。彼女の夫という男が、これまた、ひょろりとした男で、山男とは正反対であり、頼りなげな男だった。

正雄の客は、いつも正雄に子供が6人いる話をすると、正雄に同情的で、チップをはずまないまでも、田舎の金銭感覚からすると、高く感じがちなガイド登山費用を快く出せるようだった。だから、子どもが6人という話をするのは、正雄の客引き定番トークだった。これで女を落としたこともある。もちろん、登山ツアーに来るくらいだから、それ相応の年の女性だが、それでも女性は女性だ。

正雄は今回もこの手で郁子の気を引こうとした。しかし、おかしい。別に同情している様子がない。「大変ですね」とは言うが、それだけ。ピッケル講習の天狗岳の登山日は雪がないとかで変えさせらえるし、完全にあちらのペースだ。正雄はさらに妻の話をすることにした。夜の生活がとんとお留守で、なのに、やっとと思うと、すぐに妻が身ごもってしまうってやつだ。妻が嫉妬深く、携帯電話をへし折ってしまった話もした。しかし、くだんの客は、まったく同情してくれる気配がない。

なんで山でそんな話をするんだろう…。郁子はずっとそのガイドが家庭不和の話をするのをアンプロフェッショナルだと思っていた。妻が携帯を割っただと。お客はメンタルヘルス担当医か、カウンセラーか。子供が6人いて経済的に大変だと。お客はケースワーカーか。そんな話は、役所と病院でする話だろうと、都会から越してきた郁子には思えた。都会人はプライベートには踏み込まない。田舎者。それが正雄に対する印象だった。

だが、ピッケルの使い方を習得するまでは、そんな思いを悟られても、いいことはない。結局、聞き流すことが郁子にとっては一番いい選択肢のように思えた。

郁子には白い雪の山は、全くの新鮮な経験だった。光輝く山。歩いてみたら、郁子の体質にあっていたようで、あまり苦も無く歩けた。OL時代にため込んだ体脂肪がうまく寒気をシャットアウトしてくれたのだろう…。夫の悟は、いわゆるギークで、コンピュータにはめっぽう強いが、脂肪がないため、寒冷地には弱く、寒そうにしていた。体脂肪率10%代では気の毒だ、と郁子も思ってはいた。が、一人で雪の山に行くのはまだ自信がなかった。心配した人が、あれこれ言ってくるのも面倒だった。夫と二人でピッケルが必要ない山は自分たちで済ませてから、山を登っているときに、人から「これ以上行くなら、ピッケルがあったほうがいい」と言われて、ガイドを頼っているのだ。使い方が分からない道具など宝の持ち腐れなのだし。

山道具屋でガイドの紹介を受けたら、山田正雄というガイドがいいという。もう一人は国際的な有名人で高額過ぎると。早速、連絡をした郁子だが、イライラさせられっぱなしだった。

郁子は父を知らない娘だった。彼女の父親は子供を捨てた男だった。父に捨てられた娘。しかし、郁子はそんな過去は表に出さないようにしていた。不幸は不幸を呼ぶものだ。

しかし、それにしても、このデリカシーの無い登山ガイドの正雄という男は、どういうつもりか、子どもが6人いる自分を被害者だと思っているようだった。

郁子は自分の出自を話さない。プライバシーが憚られるし、なにより、彼女にとっては水に流したい過去であるのだ。貧しい子供時代。苦労する母の背中を見て育った。つらすぎる過去なら忘れたいと思うのが人情だろう。

正雄はなぜお客の気を引けないのか?謎だった。話せば話すほど、お客は、軽蔑の色を顔に浮かべるようだった…ま、マズイ。正雄の客は都会客は少ない。金づるでもある都会客には気に入ってもらいたいのだ。

そこで正雄は、勝負に出た。彼は大学を出ていない。それでも、県内ではトップクラスの高校の出身だった。「一高出身」と言えば、大体の客は感心して正雄を信頼してくれるようになる。だが、これを発したとたん、さらに郁子の態度はさらに冷たくなった。「一高って、どんな学校なんですか?」それが彼女が最初に言った言葉だった。そこには、冷笑と軽蔑の響きがあった。

郁子の母は一人で3人の子どもを育て上げた。郁子は長女だった。家事をしながら、苦労して勉学を重ね、進学校に入学した後はアルバイトして、大学進学費用を作り、働きながら夜学で大学を終わった。国立の大学だった。大学院に行く話もあったが、学費の面からあきらめた。そんな彼女にとっては学歴は、道具でしかなかった。バッジのように誇らしく振りかざすものではない。そういう人を見ると、不思議な人だと思うのが彼女だ。

しかし、それにしても、目の前の登山ガイドという男は、大丈夫なのだろうか?これまでのところ彼は、山のスキルを提示することなく、家庭不和だとか、生活苦の話をしている。そのようなことで頭がいっぱいの人間に、山で冷静で合理的な判断ができるのだろうか?そもそも、山自体の知識不足を認識するがために、高額な対価を支払っているのに、天候予測はお客の側の郁子が登山日を変更させるほどで、まったく思慮に欠けていた。ピッケルを勉強したいと言ってきている客に雪がない日をあてがうか? それでは、ただの無駄足ではないか。

郁子たち夫婦にとって正雄という登山ガイドは、ますますいぶかしいものになっていった。子供が6人いたら、どうだっていうんだ?それがガイドの資質とどう関係があると? 

正雄はいよいよ、ピンチだった。お客の信頼を失いそうになっているのは分かっていた。しかし、理由が分からない。この客は都会の客だ。ツボが違うのだろう。しかし都会の客だけに失いたくない。「ピッケルより読図でしょ」と雪の山で、お客には釘を刺しておいた。正雄の得意な山は読図の山だからだ。それに読図が大事な技術なのは真実なのだし…。

正雄は勝負に出た。「お客様感謝デー」だ。正雄の得意の読図で、信頼を勝ち得るのだ。しかも、無料なら来ない訳にはいかないだろう。正雄は読図には自信があった。いつも一人で山に登っては人知れず酒を飲んで帰る。山はいうなれば、家の中に居場所のない正雄の心のよりどころだ。

その日は、女性常連客の幸子、例の郁子夫婦、最近山を始めた50代の時男、という顔ぶれだった。幸子が来たのは、うれしかった。これで自分が信頼されている登山ガイドだということが示せる。

順調に山を登り、読図のポイントをいくつか紹介する。よし。これまでのところ、納得してもらっているようだ。けっこう急な道で、時男がザックに外付けしていた保温ボトルを谷底に落とした。拾いに行くか。ここは見せ所だ。「外付けにするとこういうことが起こりますね。保温ボトルは中にいれましょう」こういう初歩的なミスをしてくれるお客は、むしろありがたいものだ。

山頂についた。早速、鍋と酒で宴会の用意をする。幸子は気を利かせてワインボトルを一本持ってきてくれた。郁子と幸子は女性同士の話に花を咲かせているようだ。みなで乾杯してなかなか良いムードだ。都会の客はザックの重さを気にすることが多い。重量を担ぐ自信がないのだろう。郁子夫婦もケーキを持参して来たりしていた。なかなか楽しそうで成功だ。

下山を開始する。と、さっきのワインが効きすぎたのか、時男の足がふらふらだった。これは、と思うが、降りるしか仕方がない。と行っている間に、時男は、登山道の無い不整地に歩き慣れていないためか、ごろん、一回転して転がった。あ!と思ったときには、すでに遅かった。そして、2回、3回と加速度をつけて転がる…。転んだところが広めの尾根だったため、樹木と摩擦で停止してくれたようだ。一同全員が凍り付いた。大丈夫か?と正雄が走り寄る…。時男は、いたってのんびりと大丈夫です、という答えだった。

郁子が、スリングを出してきた。これで、時男のザックにつなげと言い出した。最近の山の雑誌で読んだのだそうだ。山の雑誌だと!そんなものを本当の山やは読まない!しかも、時男は大の大人だ、こんな猿回しのようなことは…と思ったが、時男の足取りを見ていると、そうとも言えない。転んだところが良かったのは幸運だったのかもしれないとも思える。とりあえず、ここは郁子の言うとおりにしてみることにした。まだ下に読図のポイントが残っている。

「山でお酒を飲むって、ありなのかしら…」それが先ほどから郁子の頭の中でぐるぐる回っている。しかも、この時男という男性は、正体を失っている。こんな山とは…というのが正直な感想で、いくら無料のお客様感謝デーとはいえ、郁子はすでに早く帰りたいと思い始めていた。

下っていると、やっと踏み痕らしきものに出た。少し先は林道なのに、正雄がここから登り返しです、という。見るとただの山の斜面だ。道はない。しかし、この時男の様子では10数mとはいえ、ただの泥の壁の山の斜面を登り返せるようには見えない。

郁子は、すでに何としても早く安全下山すべし、と判断を切り替えていた。この時点で最短で下界にたどり着けない選択肢はありようがない。

「こんな人がいるんですよ。今すぐ山を降りましょう」

郁子の声には確固とした響きがあり、誰も反論できない。もはや、山行を仕切っているのはガイドの正雄ではなく、郁子だった。

仕方ない。正雄としては理不尽だったが、パーティが分断するのは最悪だ。無料とはいえ、お客の言うことだし、意向を聞かざるを得ない。幸子が俺を気の毒そうに見ている。元はと言えば、幸子が持ってきたワインを時男が飲み過ぎたのが悪いのだ。それを気にしている様子だ。ここはなんとか、適切な対応力がある登山ガイドだということを見せたい…。

「良いでしょう。ではこのまま山を下ります。先頭は郁子さんが歩いてください。旦那さんが次。私と幸子は時男のサポートにつきます」正雄がそういうと、郁子はさっさと山を下り始めた。歩きはこなれている。旦那のほうは何とかついて行っているみたいだ。後続のことは任せたとばかりに一目散で降りているというほうが適切かもしれない。

幸子は、正雄が好きだった。気の良い男性で、地元の有名人、それが正雄だった。問題がないとは言えないが、よくやっている。それが大体の正雄の地元での評価で、こないだは、「平成の〇〇」などと地元の偉人と正雄が重ねられていたくらいだ。幸子はいつも正雄に山に連れて行ってもらっているという思いがあり、それでワインを持ってきたのだが、まさかこんなことになるとは…。なんとか正雄に感謝の気持ちを伝えたい…それにはどうしたらいいのだろう…。

時男はまだふらついてはいるが、なんとか登山道から林道に降りれた。林道の個所で、先頭の二人は待機して待っていた。道の分岐で待つという登山のルールは知っていたようだ。しかし、そこでまた事件が起きた。

幸子が正雄に抱き着いたのだ。正雄としては幸子は常連客で、いつもの私生活の愚痴も快く聞いてくれ、悪い気はしない客だった。しかし、なぜ今、俺に抱き着いて来るんだ? たぶん、ワインの良いが回ったのか?間の悪いことに、それを郁子たち夫婦は見ていたようだ。

正雄にとっては、時男から解放されたら、今度は幸子の相手だ。「おっと、幸子さん大丈夫ですか?おぶって行ってあげましょうか」と冗談でごまかす。幸子は、そこまでは必要ないという。顔を赤らめ、明らかにしまったという顔をしている。

なんでこんなことしちゃったんだろう…。さっきから幸子は恥ずかしさで、郁子をまともに見れないでいた。違う、違うのよ。正雄は、そんな人じゃないんですよ、それが幸子が言いたかったことだ。それだけなのに…。さっき正雄に抱き着いてしまったのは、どうしてなのか、幸子にも分からない。夫も子供もいるのに…。ワインなのか、なんなのか。幸子は悲しく、ただただ隠れてしまいたいだけだった。

そうして、このお客様感謝デーの読図山行は、気まずい雰囲気のまま、最後の林道歩きとなった。

郁子たち夫婦は、駐車場につくなり、これで、とばかりに一目散に帰っていった。












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