Monday, July 31, 2017

夏山の混雑はコントロールできないリスク

私はグロービスという社会人大学院でマーケティングを学んだ。そこで分かったこと…。

マーケティングとは、ビジネスに都合のいいことを拡大し、都合の悪いことは伝えない、という首尾一貫した姿勢を戦略と呼び、取ることが多いということだ。

実際、マーケティング戦略を立案するのだが、優劣というのは、整合性、主張が首尾一貫しているかどうか?で決まる。

しかし、実際の世界は、長所は欠点の裏返しであり、山においても同じことだ。山は美しいが、それは人の手が入っていない、ありのままの自然だから、という訳であり、それは、反面、お天気が変わりやすいとか、救急車を呼んでもすぐ来ないとか、登山道は無舗装路であるとか、石ころが滑りやすいとか、空気が薄いとか、坂が急だ、とか、すべて、自然が自然のありのまま、だからである。

で、私が思うのは、山の雑誌は、マーケティングが良すぎて、山のいいところしか、雑誌の中で取り扱っていない、ということだ。

私が持っている古い岳人などは、今の雑誌のつくりと全然違う…。おとぎ話みたいな耳触りの良いことだけを雑誌やFBでアップしている雑誌を見ると、マーケティング的には合っているけど、山の神様は、きっとうれしくないよなぁと思う。

山小屋も同じことだ。ヘリで石油を大量に荷揚げして、発電機で電気を作って、安い冷凍食材を提供するから、結果としては食材は多国籍、大量の糞尿は標高が高いため、なかなか分解されず、地層を形成中みたいな状況、山の神様がうれしいと思うだろうか…?

結局、”山の神様”に仕えているのではなく、”カネ儲けの神様”に仕えている、ということが、そもそもの問題なのだろう。

こうした傾向は、私が思うには、ここ20~30年で強化された傾向だ。バブルを経験し、バブル崩壊を経験し、小泉改革で、弱肉強食、競争がより激化して、カネ儲けになれば、黒いカネも白いカネも同じだという風潮が強くなり、例えば、銀行でさえ、サラ金業に手を出しても、罪悪感もなければ、社会的にも問題視されない、という世界になった。

”山の神様”が喜んでいないだろう、と思われることをするのは、”自分の中の良心”も喜んでいないことをしているのと同じだ。

なぜなら、両者は同じだからだ。

したがって、遭難が増えるのは、当然のことでしかない。登山者に山の真実の姿を伝えていないからだ。

山に登るにはリスクを起点にプランニングしなくてはならない。そんなことは、山岳会にいる山ヤだったら、誰でも知っている。

リスクを起点にプランニングする、という点がありきたりのことであるのに、その作法も伝えられず、プランニングのイロハや安全で確実なステップアップ法も語られない。

リスクが語られるときは遭難数や事例で、そんなのは特殊事例として、一般登山者の頭の中ではスルーされるのが落ちである。大事なのは、ただ楽しいだけの山をしたい人(=リスク意識が低い人)にも届く書き方なのだから。

雑誌で語られるのは、なんだかポエティックで、メルヘンな、お花畑なセリフ。”かわいい”とか、”きれい”とか、”楽しい”とか、”やったー”とかで、三歳児みたいな語彙である。

そんな風にして山をただの空想上のメルヘンにしてしまうから、まさか、アイゼンがいるんですか?みたいな登山者が来てしまう。その人に悪気があったわけではなくて、知らされて当然のことが、登山者数を増やしたいと言うマーケティング上の、つまり、カネ儲け以上の都合のために、知らされていないのではないか?

そんなことをいつも思う夏山の遭難…

大体、夏山をプロモーションすること自体が良くない。山岳会に所属しているような人は夏山の縦走路にいること自体が、実はとっても珍しい…。

山では、混雑自体がリスクで、そのリスクは、コントロールできないものだから、である。

しかも、その混雑の主体を成す登山者像は、ほとんど、山初心者、つまり巻き込まれ遭難の可能性も高い。

上からおじさんがふってくる、など。

そうしたリスクはコントロールできないため、大体、事情を良く知っている人はそのようなリスクを回避して、そもそも行かない(笑)。

そして、そういう人は雑誌を読まない。役立つことは書いていないからだ。

私の周りで山の雑誌を読んで、山に行っている人は一人もいないような気がする。






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